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高野山二大聖域の一つ壇上伽藍の魅力と見どころ!

2016年10月12日高野山の観光スポット

空海と壇上伽藍の歴史

高野山の二大聖地のひとつ壇上伽藍、ここは弘法大師空海が真言密教の道場を開いた一番最初の場所です。
空海は唐から帰国する際、日本のどの場所で真言密教を広めればいいかと明州の港から三鈷杵と呼ばれる仏教の法具を天に投げました。
その三鈷杵が飛んできたのがここ壇上伽藍にある三鈷の松と呼ばれている松の木でした。

飛行三鈷杵
飛行三鈷杵(空海が持っていた実物とされる三鈷杵 重要文化財)
出典:http://www.nankaikoya.jp/event/koyasan1200/event/syosai01.html

唐から帰国をはたした空海は、真言密教の修法の根本道場の地を探す旅に出ます。
その途中、大和国宇智郡(奈良県五條市)に入られたときに一人の狩人(狩場明神)と出会います。
空海はその狩人が従えていた白い犬と黒い犬に導かれて、紀伊国天野(和歌山県かつらぎ町)まで行くと今度は天野の社で土地の神である丹生明神と出会い、ご神領である高野山を授かります。
高野山にきて三鈷の松に引っかっている三鈷杵を見つけた空海は、ここ壇上伽藍に最初の道場を開くことにし、先に御社を建てて、狩場明神と丹生明神を高野山の鎮守の神として祀られました。

その三鈷の松には3本の葉がある松葉があって、それを見つけて持っていると3つの願いが叶うと言い伝えがあり今ではその三葉を探す人が絶えません。

三鈷の松
三鈷の松 (C)poco-mom

壇上伽藍(だんじょうがらん)とは?

壇上伽藍の伽藍とは僧侶が修行をする場所のことで、ここには多宝塔の根本大塔(こんぽんだいとう)、総本堂になる金堂、弘法大師の持仏堂である御影堂などの伽藍群が立ち並んでいます。
壇上伽藍に建てられた数々の建物は、胎蔵曼荼羅(たいぞうまんだら)の世界を具像化しており、右手が清浄、左手が不浄からインドより伝わる右遶(うにょう)と言われる金堂を中心として時計回りに礼拝するのが正式な参拝の方法です。
それでは壇上伽藍にある建物の配置からご覧いただきましょう。

壇上伽藍マップ
高野山マップの拡大キャプチャ画像

 

中門(ちゅうもん)

中門
中門 かめぞう

壇上伽藍の入口となる中門は何度も火災による焼失を繰り返し、天保14年(1843年)の焼失を最後に再建されることがありませんでした。
しかし、平成27年の高野山開創1200年に合わせ172年ぶりに再建されました。
新しく再建された中門には、1843年の火災のときに運び出されいた多聞天像と持国天像を解体修復、新しく増長天像と広目天像が作られ4体の仁王像が四天王像として蘇りました。
高さ16m、幅26mの朱色に輝く二層づくりの楼門は壮大です。

 

金堂(こんどう)

金堂
金堂 かめぞう

壇上伽藍の中心に位置する金堂は弘法大師によって創建されたもので、平安時代より高野山の総本堂としての役割を果たしてきました。
この金堂も何度も焼失にあい、現在の建物は昭和7年(1932年)に再建されたものです。
中には木村武山(ぶざん)画伯直筆の釈迦成道驚覚開示(しゃかじょうどうきょうがくかいじ)の図、八供養菩薩像(はっくようぼさつぞう)があります。
ご本尊は秘仏の薬師如来(阿?如来)で平成27年の高野山開創1200年のときに特別公開されました。
拝観料は200円、拝観時間は午前8時30分 ~ 午後5時 となっています。

 

六角経蔵(ろっかくきょうぞう)

六角経蔵
六角経蔵 NOBUTARO

鳥羽法皇の皇后である美福門院(びふくもんいん)が法皇の菩提を弔うにあたり、紺紙金泥一切経(こんじきいっさいきょう)を納めるために建てた経蔵です。
別名、荒川経蔵とも呼ばれ、現在の建物は昭和9年(1934年)に再建されたものです。
下の方に取っ手が付いており、それを押して時計方向に1周すると中の一切経を全て読んだことになり功徳が得られると言われています。
ちなみに、紺紙金泥一切経は重要文化財に指定されており、現在は霊宝館に保存されています。

 

御社(みやしろ)

御社2
御社 出典:http://blogs.yahoo.co.jp/aya6kode18ra/33658123.html

弘法大師空海が高野山開創の折りに守り神として麓の天野社より丹生明神(にうみょうじん)、高野明神を勧請されここに祀られています。
御社は3つの社殿があり、一宮には丹生明神、二宮は高野明神、三宮は十二王子・百二十伴神が祀られています。
これが神仏習合(しんぶつしゅうごう)の始まりだとされています。

 

山王院(さんのういん)

山王院
山王院 いっちゃん2015

山王院は御社の前にあり拝殿として建造されました。
山王とは丹生明神を地主の神とした「山の神」のことを現します。

 

西塔(さいとう)

西塔
西塔 かめぞう

西塔は弘法大師空海が描いた図面を元に、空海の甥であり弟子の真然により仁和2年(886年)に建立されました。
実は空海は大塔(根本大塔)とこの西塔をもって大日如来の密教世界を具現する予定でしたが諸情により遅れ、空海が入定された後に完成しました。。
現在の西塔は江戸時代、天保5年(1834年)に再建されたもので、中には金剛界大日如来と胎蔵界四仏が奉安されています。

 

孔雀堂(くじゃくどう)

孔雀堂
孔雀堂 いっちゃん2015

孔雀堂は正治元年(1199年)に京都・東寺の延杲(えんごう)が雨乞いにより都を救った功績を称え、後鳥羽上皇の命により建立されました。
正治二年(1200年)には快慶作の孔雀明王像(重要文化財)がご本尊として奉安されましたが、現在は霊宝館に保存されています。
昭和元年(1926年)には火災により焼失したため、現在の建物は昭和58年(1983年)に再建されたものです。

 

准胝堂(じゅんていどう)

准胝堂
准胝堂 かめぞう

准胝堂は弘法大師空海が得度の儀式を行う際のご本尊としてして自ら彫った准胝観音が祀られています。
この准胝観音はもともと食堂に安置されていたのですが、天禄4年(973年)頃にこの准胝堂が建立され移されました。
現在のお堂は、過去に幾度も火災にあって焼失したため明治16年(1883年)に再建されたものです。
毎年7月1日に、准胝堂陀羅尼会(じゅんていどうだらにえ)と呼ばれる法会が営まれています。

 

御影堂(みえどう)

御影堂
御影堂 おぎすみ

もともと弘法大師空海の持仏堂として建立されましたが、後に空海の十大弟子の一人である真如親王直筆の「弘法大師御影像」が奉安され御影堂になりました。
堂内の外陣には、真如を含めた空海十大弟子の肖像が掲げられています。
このお堂は高野山の中でも最も重要な聖域であり、旧暦3月21日に執り行われる「旧正御影供」の前夜を除き、一般の参拝は許されていません。

 

根本大塔(こんぽんだいとう)

根本大塔
根本大塔 アルフェッカ

根本大塔には弘法大師空海が高野山開創にあたり弘仁7年(816年)から建て始め、空海が入定後、高野山ニ世代真然大徳(しんぜんだいとく)と二代にわたり年月を費やして887年ごろに完成した日本で最初の多宝塔と言われています。
空海は、この大塔を法界体性塔と呼び真言密教の根本道場のシンボルとして建てられたため根本大塔と呼ばれるようになりました。
現在の大塔は昭和13年(1938年)に再建されたもので、高さはおよそ50mもあります。
ご本尊は胎蔵大日如来(たいぞうかいだいにちにょらい)で、その周りを金剛界の阿(あしゅく)、宝生(ほうしょう)、無量寿(むりょうじゅ)、不空成就(ふくうじょうじゅ)の四仏が取り囲んでいます。
内陣には16本の柱があり、堂本印象(どうもといんしょう)による十六大菩薩(じゅうろくだいぼさつ)が描かれています。
四隅の壁には真言密教を伝えた八祖(はっそ)像が描かれており、この内陣そのものが立体的な曼荼羅(まんだら)を構成しています。
拝観料は200円、拝観時間は午前8時30分 ~ 午後5時 となっています。

 

大塔の鐘(だいとうのかね)

大塔の鐘1
大塔の鐘 world-line
大塔の鐘は弘法大師空海が鋳造を発願したのですが、完成したのは高野山ニ世代真然大徳の時代です。
高野山は過去に幾度となく火災に見舞われ、さまざまな建物が焼失、再建を繰り返していますがこの大塔の鐘も例外でなく、現在ある銅鐘は天文16年(1547年)に完成したものです。
直径は2.12mもあり、日本で四番目に大きい鐘だったので高野四郎とも呼ばれています。
現在も午前4時、午後1時、午後5時(春季彼岸中日より秋季彼岸中日までは午後6時)、午後9時、午後11時の5回に分けて刻を告げています。
ちなみに、高野山には刻を告げる鐘にまつわる伝説があるのですが、それはまた機会がありましたら載せたいと思います。

 

愛染堂(あいぜんどう)

愛染堂
愛染堂 かめぞう

愛染堂は後醍醐天皇の命により、四海静平(しかいせいへい)、玉体安穏(ぎょくたいあんのん)を祈るため建武元年(1334年)に建立されました。
このお堂も何度か災害にあい、現在のお堂は嘉永元年(1848年)に再建されたものです。
ご本尊の愛染明王は愛を司る仏様として、近年は若い女性からも人気があるそうです。

 

不動堂(ふどうどう)

不動堂
不動堂 world-line

鳥羽上皇の皇女である八条女院(はちじょうにょいん)が発願し、建久8年(1197年)に行勝(ぎょうしょう)上人によって健立されました。
不動堂はもともと一心院谷という場所にあったのですが後に移設され、現在の建物は14世紀前半に再建されたもので国宝に指定されています。
鎌倉時代の仏師、運慶作の八大童子(はちだいどうじ)像とご本尊の不動明王坐像が祀られています。
※八大童子は現在、霊宝館にて保存されています。

 

勧学院(かんがくいん)

勧学院
勧学院 出典:しばてんのカメラでツブヤキ

北条時宗が僧侶の修業の道場として金剛三昧院に建てた勧学院を、後に後宇多天皇(ごうだてんのう)によって
文保2年(1318年)に現在の場所に移されました。
ご本尊に大日如来が祀られています。
今でも山内の僧侶が修行する学問道場として使われていて、勧学会(かんがくえ)という行事が毎年行われています。
特別なことがない限り一般の人は立入禁止となっています。

 

大会堂(だいえどう)

大会堂
大会堂 かめぞう

鳥羽法皇の皇女(娘)である五辻斎院(ごつじさいいん)内親王が父帝の追善のために安元元年(1175年)に建立したお堂です。
もとは別の場所にあったのを徳川時代に当地に移され、現在ある建物は嘉永元年(1848年)に再建されました。
ご本尊は阿弥陀如来で、その脇侍に観世音菩薩と勢至菩薩が祀られています。

 

三昧堂(さんまいどう)

三昧堂
三昧堂 かめぞう

高野山9世代座主、済高(さいこう)が延長7年(929年)に建立したお堂で、ここで理趣三昧(りしゅざんまい)という儀式をしていたので三昧堂と呼ばれるようになりました。
元は総持院にあったのを後に壇上に移され、このときに西行法師が修造に関わったとされています。
そのときに西行が直接植えたと言われる桜が大会堂と三昧堂の間にあり、西行桜と呼ばれています。
現在の建物は文化13年(1816年)に再建されたものです。

 

東塔(とうとう)


東塔東塔 ちゃ和

大治2年(1127年)に白河院の御願によって建てられた東塔は、ご本尊の尊勝仏頂尊(そんしょうぶっちょうそん)と不動明王、降三世(ごうさんぜ)明王の脇侍(きょうじ)が祀られています。
天保14年(1843年)に焼失後、弘法大師御入定1150年御遠忌記念の事業として昭和59年(1984年)に再建されるまで、なんと140年もの間土台の礎石のみしかありませんでした。

 

智泉廟(ちせんびょう)

智泉廟
智泉廟 出典:蓬庵(よもぎあん)のブログ

東塔よりも少し東にひっそりと佇む小さな廟、智泉廟は弘法大師の十大弟子の一人で実の甥にあたる智泉大徳(ちせんだいとく)の御廟です。
智泉は非常に優秀で、14歳という若さで空海の従者となり、16歳のときには空海と一緒に唐に留学しに行きました。
時して同じく空海とともに仏教を学ぶ、後の天台宗開祖となる最澄と空海の間を取り持つこともありました。
しかし智泉は37歳という若さで空海よりも先に天長2年(825年)他界、悲しんだ空海はここに御廟を創ってお祀りしたのです。

 

六時の鐘(ろくじのかね)

六時の鐘
六時の鐘 出典:じゃらん

金剛峯寺の左側、伽藍の入口にある小高い石垣の上にそびえ立つのが六時の鐘と言われる鐘楼です。
豊臣秀吉の勇将、福島正則が亡き父母の追善を祈って元和4年(1618年)に健立されました。
その後、正則の子である正利が寛永7年(1640年)に再鋳したのですが、その鐘銘が仮名まじり文であることで有名です。
現在でも午前6時から午後10時までの偶数時に刻を告げています。
ちなみに、六時の鐘の石垣にはあの大泥棒・石川五右衛門にまつわるあるお宝?が隠されています。
それに触ると二人の絆が深まるとされるあるお宝はこちらのページをご覧ください。

 

蓮池(はすいけ)

蓮池の赤橋
蓮池にかかる赤い橋 おぎすみ

かつて蓮の花が咲いていたので蓮池と名付けられたこの池には小島があります。
江戸時代の明和年代、当時度重なる干ばつで苦しんでした民衆を見かねた瑞相院の慈光という僧が雨乞いの仏様・善女竜王(ぜんにょりゅうおう)と仏舎利(ぶっしゃり)を寄贈し明和8年(1771年)に小さな祠が建てられました。
その効果は絶大で、お祀りするとたちまち雨が降り出し干ばつの危機を救ったと伝えられています。


善女竜王

善女竜王社 出典:『風の部屋』から

 

蛇腹道(じゃばらみち)

蛇腹道の紅葉
蛇腹道の紅葉 写真:浮き草 ゆきんこ

伽藍入り口から東塔東側付近までのびる小道のことで、弘法大師は東西に伸びる高野山のことを「東西に龍の臥せるがごとく」と形容し、壇上伽藍が頭、蓮花院(れんげいん)のあたりが尻尾とされ、ちょうどこの辺りが腹の部分になるので蛇腹道と呼ばれています。
高野山は10月下旬から11月上旬にかけて紅葉の見頃になります。
特に蛇腹道の紅葉のトンネルは非常に美しく人気スポットです。

 

登天の松と杓子の芝(てんとうのまつとひしゃくのしば)

登天の松
登天の松 出典:高野山観光

金堂の西側にそびえ立つひと際高い松の木があり登天の松と呼ばれています。
久安5年(1149年)、明王院の僧侶・如法上人(にょほうしょうにん)がこの松の木より弥勒菩薩の浄土に昇天されました。
これを見ていた斎食の準備をしていた弟子の小如法もあわてて後を追うように昇天されました。
当時の松の木の下には芝が生い茂っていおり、この時、 小如法が手に持っていた杓子が落ちてきたので杓子の芝と呼ばれるようになりました。
言い伝えによると、如法上人が昇天される際に履いていた靴が片方だけ脱げてしまい、その靴は伽藍から300mほど離れた明王院の松の木に引っかかっていました。
そのことから、明王院にあるこの松の木はクツカケの松と呼ばれるようになったそうです。