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高野山の創設にまつわる伝説、空海と白犬および黒犬との邂逅

高野山は空海によって開創され、2015年にはその歴史が1200年を迎えました。現在では、年間200万人以上の観光客が世界各国から訪れる名所となっています。

空海が密教を広めるために高野山を選んだ背景には、白と黒の2匹の犬との出会いに関する伝説が伝わっています。

今回は、高野山の歴史を探るにあたり、空海の生い立ちと高野山誕生にまつわる伝説を紹介したいと考えています。

空海と仏教の関連性について

空海は、774年(宝亀5年)6月15日に讃岐の国、香川県の善通寺で誕生しました。彼の本名は佐伯真魚(さえきまお)ですが、彼が7歳の時に仏道に対する強い願望を抱き、命を救ってほしいと願いながら捨身岳の崖から身を投じたという逸話があります。その際、釈迦如来と天女が現れ、彼の命は救われました。この出来事を受けて、後に捨身岳の山上に四国八十八ヶ所霊場の第73番札所『出釈迦寺(しゅっしゃかじ)』が建立されたと伝えられています。

真魚は18歳で大学に進学し、儒教を学びましたが、わずか1年で中退しました。彼は、儒教を信仰していた家族や周囲に対し、仏教が儒教や道教よりも優れた教えであると主張し、24歳の時にその旨を記した『聾瞽指帰(ろうごしいき)』という書を残しました。

仏教の世界に入った真魚は、奈良吉野の金剛山や伊予の石鎚山で修行を重ね、土佐の室戸岬にある御厨人窟(みくろど)では、虚空蔵菩薩の化身である明星が口の中に飛び込んできたとされています。この時、御厨人窟から見える景色が空と海だけであったため、彼は後に「空海」と名乗るようになったとも言われています。

空海と遣唐使の関連性について

遣唐使 posted by (C)ローリングウエスト

空海が仏教を学ぶために遣唐使として唐に渡ったことは広く知られていますが、彼が留学生として派遣されることを決定した人物については、今なお謎に包まれています。

804年(延暦23年)、空海は唐に渡航し、その際には後に天台宗の宗祖となる最澄や橘逸勢、さらに中国で三蔵法師の称号を得た霊仙と共に行動しました。

最澄はこの時点で既に天皇の護持僧として仏教界での地位を確立していましたが、空海は無名の修行僧に過ぎませんでした。

空海は唐の都・長安にある醴泉寺で般若三蔵に師事し、密教に不可欠な梵語を学び、経本や新訳経典を受け取りました。

その後、密教の第七祖である青龍寺の恵果和尚に師事し、密教の奥義を伝授された空海は、大日如来を象徴する『遍照金剛』の灌頂名を授かり、正式に真言密教の伝承者・第八祖としてその奥旨を全て受け継ぎました。

しかし、恵果和尚は806年1月12日に空海に対し、早急に日本に帰国し真言密教を広めるようにとの言葉を残して亡くなりました。

高野山の創設にまつわる物語、空海と白犬および黒犬の関係

空海と猟師と2匹の犬 posted by (C)高野山教報 第1566号

空海は、恵果和尚の死後の806年8月に、遣唐使の帰国船に無理やり乗り込み、日本への帰路につきました。

その直前、明州(現在の寧波)の海岸から日本に向けて投げられたのが、著名な八祖相伝の三鈷杵(さんこしょ)です。

このエピソードは広く知られているため、多くの人が耳にしたことがあるでしょう。三鈷杵は密教の法具であり、空海は日本のどこで真言密教を広めるべきかを考えながら、東の空に向かって投げました。

その三鈷杵は高野山の松の木に引っかかり、ここに修禅の道場を開くきっかけとなりましたが、その道案内をしたのが、これからお話しする白い犬と黒い犬です。

2匹の動物と犬、そして2人の神々

帰国後、空海は密教を広めるための適切な場所を探し求めて旅をしていました。その際、奈良の山中で白と黒の二匹の犬を連れた猟師に出会います。

空海が道場を開くための良い場所を尋ねると、猟師はその場所を知っていると答え、犬たちに案内させることにしました。空海はその二匹の犬に導かれながら進んでいきます。

途中、高野山の中腹にある神社に到着し、一晩を過ごします。そこで猟師から山人を紹介されます。

次に、山人に三鈷杵について話すと、南の方にある平原に沢があり、そこが空海が求めていた場所だと案内されます。途中、山人は自らがこの土地の主であり、空海にこの領地を譲る意向を示しました。

唐から投げられた三鈷杵の発見

ついに、目指していた平原に到達した際、1本の松の木に光り輝く三鈷杵が引っかかっているのを発見しました。

それを見た空海は、山人に対してあなたは一体どなたなのかと尋ねたところ、昨日の猟師は狩場明神であり、自分は丹生明神であると告げて姿を消しました。

空海は、真言密教の根本道場を開くのにこの場所が最適であると考え、816年(弘仁7年)に当時の嵯峨天皇から許可を得て、高野山の七里四方に結界を設け、最初に現在の壇上伽藍に狩場明神と丹生明神を祀る社を建立しました。

このようにして、白と黒の2匹の犬と猟師、山人の両神によって、空海が目指していた理想の真言密教の道場が開かれることとなったのです。

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