タモリさんが出演しているNHKの旅番組『ブラタモリ』、3周目は『高野山は なぜ“山上の仏教都市”に?』という事で、高野山中心部と金剛峯寺、壇上伽藍でその謎をブラブラ歩きながら探っていきます。
今でも117もの寺院が建ち並んでいる町、高野山、その中には銀行やコンビニなどもありますが、町がお寺の中にあるという全国でも珍しい仏教都市、いったいどうやってできたのでしょうか?
高野山のメインストリートに隠された町づくりの秘密
高野山は、日本の他の場所では類を見ないおよそ800mの山上にある仏教都市です。
東西に4km、南北3kmに平らな土地が広がる不思議なところに、今から1200年前に空海が真言密教の修業の場を設けました。
現在、およそ2300人の方が住んでいるのですが、その中の3人に一人がお坊さんです。
高野山金剛峯寺は一山境内と言って、高野山全体が金剛峯寺の境内でその中に117もの塔頭寺院(たちゅうじいん)があって、お寺の中に町がある全国でも珍しい仏教都市です。
考えてみれば、標高800mもの山の上に町ができるような平らな場所があったなんて不思議ですよね。
高野山が恵まれていたものとは?
今回、タモリさんたちを案内してくれるのは高野山の宮大工、尾上さんでした。
仏教都市高野山に相応しいコンビニなども、尾上さんが建てたものだそうです。
さて、そんな尾上さんに案内されて来たのが高野山のメインストリート、金剛峯寺前を東西に走る県道53号線ですが、緩やかに蛇行しているその道にも人の暮らしに欠かすことのできないある恵みが隠されていました。
これは、私もちょっと予想もつかなかったことですが、何と、県道53号線はかつて川だったそうで、今ではその道の下が暗渠(あんきょう)となっていて地面の下を流れているそうです。
高野山の町の中心部となる千手院橋は、その昔、橋がかかっていて下に御殿川という川が流れていたそうです。
千手院橋の交差点をもう少し東に歩くと当時の川が残っていて、今では水量が少ないですが昔は山の上にも関わらず常に多量の水が流れていて、水不足に悩まされることがなかったそうです。
豊富な水がある地形と地質の関係とは?
豊富な水があるのは高野山の地形と地質に関係していて、不動院というお寺にその答えが隠されていました。
かつて、高野山では伝統的に『取り水』と言う、裏の谷から水をとって生活用水をまかなっていました。
不動院には、今もその取り水の水源となる沢があって、高野山には至るところのそのような沢や谷が町の中心部の川へと流れ込んでいたので水に困ることがなかったそうです。
さらに、その水が流れる沢は泥岩(でいがん)と言う水を通しにくい岩でできていて、水が地面の下に染み込みにくく水が溜まりやすくなっています。
高野山は泥岩でできたお盆のような形の所に湧き水がたまり、その上に溜まった土壌の上に町がつくられていて、高い山にありながら水に恵まれていたのです。
空海は、この水に恵まれた場所を偶然ではなく、すでに修行中に見つけていたからこそ高野山を修業の場として選んだのです。
山の上でどう調達!?高野山の食糧事情
高野山が水に恵まれていたのは分かりましたが、水だけでは生きていけません。
仏教なのでお肉類は一切食べてはいけない精進潔斎(しょうじんけっさい)、ではどうやって食べ物を調達していたのでしょうか?
タモリさんたちが高野山の宮大工、尾上さんに案内されて来たのは真言宗の総本山金剛峯寺。
ちょっと食べ物の話とは外れますが、金剛峯寺にある木で作られた大きな三鈷杵(さんこしょ)も尾上さんが作ったものだそうです。
その金剛峯寺の『上段の間』は土壁ではなく金箔の壁、これは人が踏んだものを頭の上に置かないという考え方から来ているそうです。
さて、話を食糧事情に戻しまして、その奥には200畳以上もある庫裏(くり)、いわゆる台所があります。
そこには二石の釜(にこくのかま)と言う2000合ものお米が炊ける3つの巨大な釜があります。
1合、一人だとすると何と2000人分のご飯が炊けることになります。
問題は、これほどの人数分の食料をどうやって調達することができたかですが、常に食料が麓から集まってくる仕組みが2つありました。
その一つが年貢で、1万石あれば大名になれたと言う時代に2万1300石もの年貢米を集める領土を持っていました。実は、高野山は山上だけではなく、山の麓よりも遥かに広大な領土を持っていたんです。
もう一つが、周辺の人々が採れた野菜などの食物を交代でお大師さまに寄進していたからです。この野菜を高野山に寄進するのは、わりと最近まで当たり前のように行われていたそうです。
さらに、この集まった貴重な食べ物をより大切に食べれるようにと開発された特産品が、保存食の『高野豆腐』です。
女人禁制だった高野山なのになぜ人口が減らなかったのか?
高野山は1873年(明治4年)に女人禁制が解禁され、1906年(明治39年)に女性の定住が許されました。
言わば、それまでは出産率ゼロのはずだった高野山がどうして人口を維持することができたのか、その秘密が何と金剛峯寺の中にありました。
今でもお坊さんを目指して住み込みながら学校で学んでいる『寺生(てらせい)』が住んでいる寮です。このような寮は平安時代からすでにあって、全国各地から集まった学生たちが住み込みで勉強をする『絵下(えか)』と言う長屋が各お寺にあったそうです。
今でも学生の寮や客室として使われていたりしますが、安心して勉強に打ち込める環境があったことで子供が生まれない高野山に若い人が常に集まってきたんです。
全国から学生をどうやって集めた?
タモリさんたちが町をブラブラしながら案内されたのは、お寺の山門に掲げられた徳川家の家紋『三つ葉葵』の提灯や織田家の家紋の提灯、浅野家の家紋の提灯などなど、見るとどのお寺にも家紋が描かれた提灯がぶら下がっています。
昔の高野山が若い学生さんたちを集めるため使った仕組みが、この家紋にあると言います。
その仕組みを解くのにやってきたのが、六文銭の家紋で有名な真田家に縁のある蓮華定院(れんげじょういん)です。
800年近い歴史を持つ蓮華定院ですが、ここには高野山が学生を集めた仕組みが分かる資料が残っています。
蓮華定院と真田家との間に結ばれた契約書には、自分たちの領内の者が高野山に来たら必ず蓮華定院を宿坊とすると書かれていています。
高野山の各お寺では、江戸時代まで各地の大名とこのような契約を結んでいたので、その関係がそのままお坊さんになりたい若い学生を高野山へと送るシステムとなり、人口の減少を防いできたのです。
高野山を長年苦しめてきた大敵?
高野山は近年まである悩みに苦しめられてきました。
その悩みが何なのかを解く鍵が、空海が修業の場として最初に開いた壇上伽藍にあります。
壇上伽藍には20近い歴史的建造物がありますが、1000年以上も守られてきた空海の肖像画が安置されている御影堂(みえどう)には、長年、高野山が悩まされ続けてきた大きな問題の痕跡が残っています。
そのヒントが高欄(こうらん)と呼ばれる手摺にあるのですが、さすがのタモリさんも何なのか悩んでいましたが考えた末、ズバリ『火災』だと当てちゃいました。
壇上伽藍は過去に9回もの大火災に見舞われ、金堂は少なくとも6回、根本大塔も記録に残っているだけで5回は燃えているそうです。
火災の原因は失火もあるのですが、殆どが落雷によるもので、さらに檜の皮を使った檜皮葺(ひわだぶき)と言う燃えやすい屋根だったのも要因でした。
度重なる火災のうえ、長いこと焼失したままになっていたのが正式な壇上伽藍の入口になる中門(ちゅうもん)で、私が行った2年前の高野山開創1200年に合わせて172年ぶりに再建されました。
この中門も案内役の宮大工、尾上さんが建てたそうで、木は全て高野山にある木で足掛け6年、木を探す所から始めたそうです。
こうして焼失しては再建を繰り返した壇上伽藍に全ての建造物が揃ったのは、今しかないそうで、もしかするとこの先も落雷で焼失も考えられるため、今、目に焼き付けておきのも良いかもしれません。
さて、今ではそのような焼失を免れるために、高野山ではある画期的なシステムを取り入れています。
それはお寺が独自につくった総延長8kmにもおよぶ消火用の地下水路、中でも空海の肖像画のある御影堂は建物の周りを取り巻く『ドレンチャー』と呼ばれる水の壁で守られています。
しかし、これは凄い、番組ロケに偶然居合わせて方は滅多に見ることができないので幸せです。
ブラタモリの高野山は今回で終了。
なお、1週目と2週目の『高野山は空海テーマパーク!?』はこちらのページで紹介しているので御覧くださいね。