戦国時代において天下統一を果たした豊臣秀吉は、高野山の歴史に深く関わる武将の一人です。織田信長の死後、時代の先駆者としての役割を担った秀吉は、これまで手を出せなかった紀州征伐に挑みました。高野山と同じ真言宗に属する根来寺は焼き討ちに遭い、壊滅的な打撃を受け、その影響はついに高野山にも及ぶこととなりました。
豊臣秀吉
紀伊の国の仏教勢力
室町時代の紀伊(和歌山県)では、高野山、粉河寺、根来寺、雑賀衆の4つの勢力が共存し、互いに繁栄していました。高野山の寺領は17万石以上とされ、自衛のために36,000人もの兵士を擁し、幕府や朝廷でさえ無断で立ち入ることができない神聖な場所でした。根来寺や粉河寺、雑賀衆も同様に強力な兵を持ち、幕府の介入を許さなかったのです。
室町幕府を打倒した覇者、織田信長は、荒木村重の残党が高野山に逃げ込んだことを知り、高野山を攻撃しようとしました。しかし、その直後に本能寺の変が起こり、高野山は危機を免れました。織田信長は、高野山攻めの前に天台宗の本山である比叡山を焼き討ちしたことで広く知られています。
豊臣秀吉と紀州制圧…高野山焼き討ちは?
本能寺の変で織田信長が自害した後、天下を手に入れた豊臣秀吉は、強大な兵力を持つ寺社勢力を排除するために紀州の制圧に乗り出しました。戦国時代に最盛期を迎えた真言宗の根来寺は、72万石もの広大な寺領を有し、鉄砲を使う根来衆という武装集団も存在していました。雑賀衆という地侍の勢力と共に、紀州各地で秀吉軍の侵攻を防いでいましたが、手薄になった根来寺は攻撃を受け、焼き討ちにされてしまいます。
秀吉は高野山に対して全面降伏を求める使者を送り、従わなければ全山を焼き尽くすと脅迫しました。これを受けて、高野山はすでに根来寺の焼き討ちを目の当たりにしていたため、秀吉の条件を受け入れ降伏することに決めました。その結果、寺の領地は17万石から1万石に減少し、武装解除を余儀なくされました。もしこの時、高野山が降伏しなかったら、山全体が焼き討ちにされていた可能性が高かったでしょう。
豊臣秀吉と金剛峯寺の歴史
金剛峯寺
豊臣秀吉と高野山の関係は非常に深いものがありますが、高野山が降伏する際に秀吉に派遣された使者は、木喰応其という僧侶でした。後に秀吉から1千石を賜り、高野山を訪れる僧侶たちのための宿泊施設や学問を教える場所として、文禄2年(1593年)に興山寺が建立されました。その後、秀吉は本山寺の隣に母の菩提を弔うために清巌寺を建てます。この2つの寺院は明治2年(1869年)に合併し、現在の金剛峯寺となりました。実は、空海は高野山全体を金剛峯寺と呼んでおり、今でも「総本山金剛峯寺」と言うと、高野山全体を指すことになります。高野山は一山境内地と呼ばれ、山全体が寺院であり、そこにあるすべての寺院が境内の一部となっています。